トルコ語による正式国名は、Turkiye Cumhuriyeti
(テュルキエ・ジュムフリイェティ)、通称
Turkiye
(テュルキエ)。公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称Turkey。
英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、この国家をTurkey,Turquieなど、「トルコ人"トルコ人(Turk,Turc)の国」を意味する名で呼んできたが、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。トルコ語で「トルコ人」を意味するTurkにアラビア語起源の抽象名詞化語尾-iyeを付したTurkiyeは近代になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆輸入して考案された名詞である。
第一次世界大戦後、国土が列強に分割されほぼアナトリア半島のみに縮小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めてTurkiyeを国名とし、かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となる。
なお、Turk(テュルク)は、トルコ人が中央アジアで暮らしモンゴル高原に突厥遊牧帝国を築いたころにはすでに使われていた民族名だが、語源は明らかではない。日本語名のトルコは、西欧の諸言語でトルコ人を意味するトゥルク
(Turk,)の語を漢字に音訳した土耳古(tuergu)に由来し、江戸時代には既に使われていた。
歴史:
トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古代から"ヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国・ビザンツ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。
11世紀にトルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。
19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。
しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したケマル・アタテュルクアタテュルクのもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。
1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義(政教分離原則)国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦後、ソビエト連邦ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟する。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきたが、その目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題が大きな障害となっている。
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